『――巻田先生、原稿まだっすか? また遅れてますよ!』
着信したスマホを机の上でスピーカーにすると、担当編集者の原口晃太のイライラした声がダダ漏れてきた。
「分ぁかってます! 明日には書き上がるから、明日まで待って下さい!」
私は右手にシャープペンシルを握りしめたまま、スマホに向かって怒鳴った。
『まったく……。あれだけ直筆は時間がかかるから、パソコン習えって言ったのに』
……また始まった。原口さんのイヤミ攻撃が。私はブチ切れて反論した。
「あーもう! 原口さんのイヤミに付き合ってたら、ホントに原稿間に合いませんよ! 他に用がないなら切りますね」
私――巻田ナミは、そのまま通話を切った。
「はあ……、もう。うるさいったら!」
彼のイヤミ攻撃は、私が作家デビューしてからもう二年間続いている。
もう慣れてしまったからなのか、全然イヤにならないのが不思議だ。
私はデビュー作以来、直筆原稿にこだわっているのだけれど。彼はどうも、それが気に入らないらしい。
それはなぜかっていうと……、私はパソコンが使えないのだ。
パソコンで書けば、そりゃあ速いでしょうけど。使えないんだから仕方がない。
「――とにかく今は、原稿仕上げないと!」
明日間に合わなかったら、また原口さんのイヤミ地獄が待ってる!
私はシャープペンシルを持ち直し、また書きかけの原稿用紙に向き直った――。
* * * *
私が洛陽社の新人文学賞で大賞を受賞して作家デビューしたのは、大学の文学部三年生の時。原口さんと初めて顔を合わせたのは、その授賞式の時だった。
「初めまして! 今日から巻田先生の担当編集者を務めさせて頂く、原口晃太といいます。よろしくお願いします」
当時二十六歳だった彼は、私にとても爽やかに挨拶してくれた。この時の彼には、今の〝イヤミー原口〟の片鱗も何もなかったのに……。
その片鱗が見え始めたのは、デビュー後一作目の原稿を目にした彼の一言から。
「――えっ、巻田先生も原稿、手書きなんですか? 若いのに珍しいですね」
「…………」
本人には悪気がなかったみたいだけれど、原口さんのその言葉は、私にはイヤミにしか聞こえなかった。「アンタ、若いのにパソコン使えないのか」的な?
「原口さん……、私のデビュー作の原稿も読んでますよね? だったら知ってたはずですけど」
デビュー作の原稿だって、バッチリ手書きだったはずだ。
「ええ、読みましたし知ってますよ。ですけど、デビューしてからはパソコン書きに切り換える先生が多いので。特に、若い方は」
「でも、私は手書きがいいんです。この先もずっと、原稿は手書きでやっていきますからそのつもりで」
ただのワガママと取られるかもしれない。でも、これは私のこだわりだから、譲るつもりはなかった。
「まあ、手書きにこだわるのは悪いことじゃないですけどね。締め切りには間に合うように。それだけはお願いしますね」
直筆原稿は遅れがちになる。だから、彼はそんなことを言ったのだろうけれど……。
「はいはい、気をつけますっ!」
その言い方にカチンときた私は、子供みたいに原口さんに噛みついたのだった。
そしてその日から、私と彼とのバトルが始まったわけである。
* * * * ――時間を現在に戻して、それから数時間後。「はー、やっと終わったあ……」 最後まで原稿を書き上げた私は、シャープペンシルを放り出して机に突っ伏(ぷ)した。 スマホで時間を確かめたら、もう日付が変わろうとしている。約束した「明日」には、何とか間に合ったみたいだ。 ――よく考えたら、原口さんはそんなにイヤな人じゃない……と思う。私の方が、勝手に苦手意識を持っているだけで。 確かに彼は、原稿の催促(さいそく)の時には口うるさいし、イヤミったらしいことも言う。けれど、誰よりも私の小説のよさを理解してくれているのも、実は彼なのだ。 だからって、私の彼に対する苦手意識がなくなるわけではないのだけれど……。「あ~……、疲れた。お風呂入って寝よ」 私はたっぷり一時間の入浴を済ませた後、ベッドに入って翌朝まで死んだように爆睡(ばくすい)したのだった。 * * * * ――ピーンポーン、ピーンポーン、ピンポンピンポンピーンポーン …… ♪「ん~? うるさいなあ、もう……」 朝っぱらから聞こえる、ドアチャイムの連打。誰よもう! っていうか、今何時だよ? 私は寝ぼけまなこで、枕元(まくらもと)のスマホに手を伸ばすと電源ボタンを押した。ただ、時刻を確認するだけのつもりだったのだけれど。「…………えっ!? 何これ!?」 表示されていたのは、「着信十件」という文字。すべて原口さんからの電話だった。「あちゃー……」 しかも、今の時刻は十時過ぎ。最初の着信は九時過ぎに入っていたから、彼は一時間も前から電話をかけ続けていたことになる。我(わ)が担当ながら、すごい忍耐(にんたい)力だと思う。 ピンポンピンポンピーンポーン …… ♪ そして、なおもピンポン攻撃は続いているらしい。 私はフラフラした足取りでインターフォンのところまで行き、応答ボタンを押した。ちなみに、モニター画面付きである。「ふぁ~い、ロック今開(あ)けまふ……」 玄関ロックを開けるや否(いな)やピンポン攻撃はピタッと止(や)み、ドアが勢(いきお)いよく開(ひら)いた。「おはようございます……って言いたいところですけど、先生! 俺(おれ)が何回電話したと思ってるんですか!」 彼は、めちゃくちゃ怒っていた。普段の一人称(いちにんしょう)は「僕(ぼく)」なのに、怒ると
「いや、ちょっと。先生の格好(かっこう)がその……、刺激(しげき)が強すぎて」「え……? うわっ!?」 欠伸(あくび)をしながら自分の格好を見下ろした私は愕然(がくぜん)とした。 まだ寝(ね)間(ま)着(き)のままで、しかもショートパンツだ。太腿(ふともも)まで見えていたら、男性は目の遣(や)り場に困るだろう。おまけに、肩までの長さの茶髪だって寝癖だらけで爆発しているし。「ちょっ……、原口さん! 鼻の下伸ばしてイヤらしい目で見ないで下さい! 恥(は)ずかしさ半分で(これでも私は嫁(よめ)入(い)り前のオトメである)、私は必死に牽制(けんせい)した。「みっ……、見ませんよっ!」 原口さんは顔を真っ赤にして、ムキになって反論した。けれどそれ、却(かえ)って逆効果じゃないだろうか?「――あの、先生。とにかく原稿を……」 どうにか気を取り直したらしい彼は、やっと仕事のことを思い出した。「分かってますよ。服を着替(きが)えるついでに持ってくるので、リビングで待っててもらっていいですか? いつもみたいに」 原口さんににそう言って、私は仕事部屋に戻っていく。 この部屋は1LDKなので部屋は一つしかなく、そこは私の寝室も兼(か)ねているのだ。 ――六階建て・オートロックなしのこの賃貸(ちんたい)マンション二階の部屋で、私は作家デビューした二年前から一人暮らしをしている。都心だから家賃は安くない。そして、まだ人気作家とはいえないので原稿料と印税が入っても生活は楽じゃない。 そのため、書店でアルバイトをしながら兼業作家として活動している。 今日は、アルバイトの方は休みの日だ。 とりあえず、ピンクの長袖(そで)カットソーとデニムの膝(ひざ)丈(たけ)スカートに着替え、小さなドレッサーの前で髪をブラッシングした。普段からメイクはしない。 机の上に置いてあった、原稿の入ったA4サイズの茶封筒を手にして、私は原口さんの待つリビングに急いで戻った。 その途中(とちゅう)でふと思う。「彼は私に気があるんだろうか?」と。根拠(こんきょ)なんてない。ただなんとなく、そう思っただけだけれど……。「――お待たせしました。これ、原稿です」 リビングのソファーに座(すわ)って待っていた原口さんに封筒を手渡すと、彼は早速(さっそく)中身の確認を始めた。原稿の一枚一枚、隅
一応プロット(骨組み)はあるものの、締め切り前に焦(あせ)っていたりすると、プロットを無視して勢(いきお)いで書いてしまうことがある。 それは当然の結果として、ストーリーの展開に矛盾(むじゅん)を生(う)んだりする。――そのことを、編集者である彼はどう感じているのか?「いや、これはこれでアリかなと僕は思いますよ。読者の予想をいい意味で裏切る、なかなか面白い展開なんじゃないですか」「ほっ、ホントですか!? よかった……」 私は原口さんの高評価にホッと胸を撫(な)で下ろした。……が、次の瞬間。「内容はこれでいいとして……。パソコンで執筆(しっぴつ)したら、もっと早く原稿も上がってたはずなのになあ」 ……ほら来たよ、いつものイヤミ攻撃が。私はもう慣れたもので、ムッともせずに言い返した。「言っときますけど、原口さん。それ、私がパソ書きしたら、直筆の倍は時間かかりますからね?」「えっ!? ……ば、倍ですか?」 原口さんが目を丸くする。でも、そんなにビックリすることかな、これ?「ハイ。私、昔から両手でタイピングできないんです。キーボード叩(たた)くのに、指一本で一文字ずつしか打てなくて」 私は開き直って、パソコンで原稿を書けない理由をぶっちゃけた。 ローマ字入力だと、あ行(ぎょう)以外は二つ以上のキーを押して打たなければならない。それを右手の指一本でやるのだから、時間がかかるのも当然だろう。「一応、ノートパソコンとプリンターはウチにあるんです。大学時代にパソ書きで短編に挑戦してみたことがあって。でも、三〇枚くらいのを書くのに半月(はんつき)もかかっちゃって、それでパソ書きは諦(あきら)めました」 未(いま)だ両手タイピングができない理由は、その時に指がつってしまったことによるトラウマのせいもあるかもしれない。「それで……、今はパソコンは全然使われてないんですか?」「そんなことないですよ。バイト先でもパソコンは使うので、そのために練習したり、あとはネットで調べものしたりはしてます」「……そうですか」 原口さんはそう言うと、大きなため息をついた。――っていうか、最初の間(ま)はなに? そしてなぜため息をついた? もしかして、ガッカリしたのかな? 私が(彼にしてみたら)下(くだ)らない理由でパソ書きを諦めたから。 私はソファーに座ったまま、隣
「……? 先生、どうかしました?」 私の視線に気づいたらしい原口さんが、不思議そうに訊(たず)ねてきた。「えっ? あ……、えっと……」 答えに詰(つ)まった私は、咄嗟(とっさ)に不自然ではないような言い訳(わけ)を考えた。「この原稿、今後改稿の必要とかは……?」 取ってつけたような言い訳だけれど。仕事に関することなら無難(ぶなん)だろう。「多分、ないと思いますよ。校閲(こうえつ)部の人はどう言うか分かりませんが、先生の書かれる文章はいつもキッチリされてますから」「そうですか! よかった」 私の過去作はどれも(といっても三作だけだけれど)、一度の改稿も言い渡されることなく出版されている。だからきっと、今回も大丈夫だ。原口さんが「大丈夫だ」って言ってくれたんだから。「――さて、パソコン談義(だんぎ)はまたの機会にするとして。原稿は頂いたので、僕はこれで失礼しますね」 原口さんの仕事は、担当作家から原稿を受け取って終わりではない。一冊の本が刊行(かんこう)されるまでには、まだいくつものプロセスがあるのだそう。――編集者って大変な仕事だ。「はい、ご苦労さまでした。すみません、お茶も出さなくて」「いえ、気にしないで下さい。先生はお疲れでしょうし、僕も期待(きたい)してませんから」 最後にS(エス)発言を残し、原口さんは洛陽社の〈ガーネット文庫〉の編集部へと帰っていった。 玄関先で彼を見送ると、私は何だかホッとしたような、ちょっとむなしような気持ちになり、はぁーっと大きなため息をついた。 ……あれ? 私の中で何かが引っかかる。彼のイヤミ攻撃から解放されて、ホッとするのは分かるけど、むなしくなるのはどうして? まさか……。ウソでしょ!?「私、原口さんのことが気になってるの……?」
苦手だと思っていた原口さんが、いつの間にか気になり始めていたなんて。 中学時代からずっと恋愛小説を書いてきたのに、自分の中の恋心の芽生(めば)えに気づかないなんて! 私って恋愛小説家失格かな?「じゃあ、私が今まで書いてたのって、一体何だったんだろう?」 私は作家として、ちょっと自信をなくしかけていた。 一応、私だって二十三年間生きてきて、恋愛をした経験くらいはある。……数(かぞ)える程度(ていど)だけれど。 だから、恋の始まりがどんな感じなのかはだいたい分かっているつもりだったし、作品を書く時もたいていはそれを参考にしているのだけれど。 そんな私も、苦手な異性が気になったことは今までに一度もなかった。 だからなのかな? 彼に心惹(ひ)かれていることに気づけなかったのは。 ――私はその後、簡単なものでブランチを済ませ、暇(ヒマ)を持て余していたので、改めて仕事部屋の本棚(だな)にある自分の著書(ちょしょ)を読み直してみることにした。 二年間の作家生活で出した本は、たったの三冊。これは決して多くない。 けれど私の場合、デビュー作の長編書き下ろし作品以外は雑誌〈ガーネット〉に連載されてから単行本化されることの方が多かったので、まあこんなものだろうか。「――う~ん、やっぱりないなあ。苦手な異性に恋する話……」 三冊とも読み終え、私はボヤいた。というか、なくて当たり前なのだけど。作者自身に書いた覚えがないのだから。「もう、どうしたらいいのよ……?」 今までなかった経験に、途方(とほう)に暮れる。 原口さんは私にとって大事な仕事上の相棒(ビジネスパートナー)でもある。そんな彼と、私はこの先どんな顔をして会えばいいんだろう? 誰か、相談に乗ってくれる人はいないものか? ……と私が思っていたら。 ♪ ♪ ♪ …… 机の上に移動させていたスマホが鳴った。電話の着信音だけれど、誰だろう? ちなみに、原口さんでないことは確かだ。彼からの電話はすぐに分かるように、専用の着信音を設定しているから。「――ん? 琴音(ことね)先生からだ!」 電話を下さったのは、私より七歳年上の先輩作家・西原(さいばら)琴音先生だった。彼女も私と同じく、〈ガーネット〉で活動されている。 私はいそいそと通話ボタンをタップした。「はい、巻田です」『もしもし、ナミちゃ
『あたし、締め切り明けて今日は予定もないし、ヒマなんだ。ナミちゃんも今日休み?』「はい。私も今日脱稿(だっこう)したんです。バイトも休みですよ」『そうなんだ? お疲れさま。ナミちゃんは原稿手書きだから、大変だったでしょ?』 琴音先生は私ができないパソ書きをバリバリやっていて、実はちょっと憧(あこが)れている。「ええ、まあ……。ところで琴音先生,実は今、私の方から電話しようと思ってたところなんです。ちょっと、相談に乗って頂きたいことがあって……」 自分から誰かに電話しようと思っていたところに、琴音先生からの電話。私にとっては〝渡りに舟(ふね)〟だった。 すぐさま思い立って、私は琴音先生にお誘(さそ)いをかけた。「――あの、琴音先生。もしよかったら、今日これから私に付き合って頂けませんか?」 彼女なら人生経験もそれなりに豊富(ほうふ)だろうし(……って言ったら失礼かな? でも、少なくとも私よりは豊富だろうから)、きっと何かいいアドバイスがもらえると思う。『相談? いいよ。じゃあ、神保町(じんぼうちょう)まで出てこられる? あたし今、そこのカフェにいるから、一緒にお茶しようよ』「はい! 今から電車ですっ飛んで行きますね!」 私がそう答えると、琴音先生はカラカラと小気味(こきみ)よく笑った。『……ハハハッ! そんなに急ぐことないから。うん、じゃあ後でね』 彼女の笑い声の中、電話は切れた。 そういえば私、何に対しての相談ごとなのか話してなかったけれど、琴音先生はちゃんと話を聞いてくれるかな? ――きっと大丈夫。彼女なら広い心で受け止めてくれる。「――さてと、着替えようかな」 私は開けるのが本日二度目のクローゼットを開けた。 朝は慌てて着替えたから、今の私の服装は部屋着とほとんど変わらない。カフェでお茶するだけにしたって、電車にも乗るのにこれじゃカジュアルすぎるよね。 とりあえずスカートはそのままで、トップスは白のノンスリーブと淡いピンクのコットンブラウスに替えた。襟足(えりあし)の部分をルーズにずらして今時(イマドキ)っぽくする。 ハイカットスニーカーを履き、キチンと戸締りをして、最寄(もよ)りの代々木(よよぎ)駅まで走っていった。 ――けれど、私はすっかり忘れていた。今日は土曜日で電車が混(こ)むことも、自分が人混みを苦手としている
* * * *「――琴音先生、お待たせしちゃってゴメンなさいっ!」 三十分後。私は洛陽社にほど近い神保町のセルフ式カフェの店内で、待っていて下さった琴音先生にペコッと頭を下げた。 今日は土曜日なので、満員電車が苦手な私は電車を二、三本遅らせた。そのせいで着くのが遅くなってしまったのだ。「ああ、いいって。気にしないでよ。あたし今日はヒマだって言ったじゃん? とりあえず、そこ座ったら?」 琴音先生はあっさり私のことを許してくれて、向かいの空(あ)いている席を勧(すす)めてくれた。 西原琴音先生はモデルさんみたいにスラリと身長が高くて、スタイル抜群(バツグン)。でも全く気取ってなくて、優しいお姉さんという感じの女性だ。 私はアイスカフェラテとガムシロップの載(の)ったトレーをテーブルに、バッグを椅子(いす)の傍(かたわ)らに置き、勧められた席に着(つ)いた。 琴音先生の前には、白いカップが置かれている。中身はカフェオレかな? 今は四月なので、温かい飲み物にしてもよかったのだけれど。私は猫(ねこ)舌(じた)なので、熱いのが苦手なのだ。「――それでナミちゃん。電話で言ってた相談ごとってどんなことなの?」 私が席に着き、落ち着くのを待ってから、カップを両手で持った琴音先生が話を促(うなが)す。「えーっと、実は……恋バナ……なんですけど……」「うん」 彼女が私の顔をまっすぐ見て〝聞く姿勢(しせい)〟に入ってくれたので、私は全てを話すことにした。 ずっと「苦手」だと感じていた原口さんのことが、気になっていること。彼のSな発言がちょっと楽しみになっていること。 でも、過去に経験したことがないから、これが〝恋〟なのかどうか自信がないこと。 これから先、彼にどんな顔をして会えばいいのか悩んでいること……。「――あの、まず一つ確認していいですか? これって〝恋〟……で間違いないんですよね?」「え、まずそこからなの? ……うん。それはもう〝恋〟で間違いないよ。原口クンのこと、異性として意識し始めてるんなら」「原口……〝クン〟?」 私は琴音先生の答えよりも、原口さんへの呼び方が気になった。 どうしてそんな親(した)しげな呼び方ができるんだろう? と思うのは、気にしすぎかな?
「ああ、ゴメンね! あたしの方が年上だからさ、ついつい馴(な)れ馴れしく呼んじゃうの。別に特別なイミはないから気にしないでね」 ……あ、そうか。琴音先生より原口さんの方が二つ年下なんだっけ。 でも彼女はオトナの女性だから、たとえ何かあったとしても、隠(かく)したりはぐらかしたりするのもうまそうで油断(ゆだん)できない。 とはいえ、私は別に彼女と原口さんとの仲を勘(かん)繰(ぐ)るつもりなんてないけど……。「――あ、話戻しますね。私、苦手な相手を好きになった経験なくて……。琴音先生、そういう経験ありますか?」 年齢(ねんれい)だけでもわたしより七つ年上なうえに、彼女は私より大人の色気もある。恋愛経験だって、確実に私より多いはず。 ――というか、訊(き)いてしまってから「私ってばなんて野暮(ヤボ)な質問をしてるんだろう」と思ったけれど。「苦手な人を好きになった経験? うん、あたしにも経験あるよ」「ほっ、ホントですか!?」 私は思わず,テーブルから身を乗り出す。こと恋愛に関しては百戦(ひゃくせん)錬磨(れんま)だと思っていた琴音先生に、苦手な男性がいたなんて……!「そんな驚(おどろ)くことかなあ? あたしだって、昔から男慣れしてたワケじゃないよ」 琴音先生は苦笑いしてから、私に経験談を話してくれた。「もう六年も前の話だよ。あたし、就職してから一年で今の会社に変わったの。その時の上司が、すごく苦手なタイプの男性(ひと)でね……」 彼女はテーブルにカップを置き、遠い目をしながら頬杖(ほおづえ)をついて話し始めた。「その人ね、あたしがヘコむくらい毎日仕事にダメ出ししてきたの。それも、なぜかあたしだけにピンポイントでね。正直、『なんであたしばっかり目のカタキにするの?』って思ったし、その人のこと苦手になったの。……でもね」「〝でも〟?」 気になるところで彼女の言葉が途切(とぎ)れたので、私は続きを促すように彼女を見つめる。 琴音先生はカフェオレをまた一口飲んでから、再び口を開いた。「ある時に分かったの。その上司は、部下であるあたしへの期待と愛情から、あたしにダメ出ししてくれてたんだって。――で、その時からあたし、その上司のことが気になり始めたんだ」「あ……」 彼女の話を聞いて、私はふと思った。もしかしたら、原口さんもその上司の男性と同じな
* * * *「――お母さん、今日はありがとね。ここは私が払うよ」 会計の時、私がお財布を出すと、母がそれを止めた。「いいから、お母さんが払うわ。あんた生活ラクじゃないんでしょ?」「うん……」 前回の原稿料もバイトのお給料も入ったけれど、一人暮らしは何かと出費がかさむからできるだけお金は残しておきたいのが本音。「でも、今日誘ったの私なのに」「いいの! 今日はお母さんのおごり! その代わり、印税入ったら何かお礼してもらうから」「……分かった。ゴチになります」 ゴチになるのは構わない。今日の食事代は二人分でも三千円もかからなかったから(デザート代込みで)。でも、お礼で高いものをねだられたらどうしよう? そんなに印税入るだろうか?「――じゃあ、私はここで。お母さん、今日はホントありがとね」 駅の改札前で、母と別れようとしたところ。「明日もお休みなんでしょ? 今日ウチに泊まってく? ……って言ってもムリよね」 一人は淋しいから言ってみただけらしい母が、すぐに肩をすくめた。ちなみに、清塚店長からしばらくバイトを休むように言われたことは、食事中に母にも伝えてあった。「うん、ゴメンね。早く帰って原稿書きたいから」 たったの一時間ほどでこれだけ意識が変わったことに、自分でもビックリだけど。今は一秒でも早く仕事がしたくてたまらない。「そう。じゃあ気をつけて帰るのよ。でも、その手はさすがに
「――でね、私が書けなくなってる原因って多分、『書かなきゃ!』って自分で自分を追い込んでるせいだと思うんだよね」 これが、自分なりに分析(ぶんせき)してみた私のスランプの原因だ。「確かに、あんたは昔から一人で責任を背負(しょ)い込んで思いつめちゃうところがあったわねー」 二皿目のブリをつまみながら、母が頷く。「…………うう~~」 思いっきり図星だったため、私は鉄火巻きを食べていた手を止めて天を仰(あお)いだ。「ねえお母さん、……私どうしたらいいと思う?」 私は視線を天井から向かい側に戻す。原因が分かっても、解決策は何も浮かんでこないのだ。「そんなの簡単よ。ただ初心に帰ればいいだけの話でしょう?」「へ?」 母の答えは抽象(ちゅうしょう)的かつ漠然としすぎていて、マヌケな声しか出てこない。「じゃあ、もっと分かりやすく訊かせてもらうわ。あんたは一体、誰のために作品を書いてるの?」 母のぶつけてきた質問はシンプルだけれど、それでいて核心(かくしん)をついてきている。「それは……」 改めて考えると、なかなか難しい。 自己満足? ――のはずはない。じゃあ原口さんのため? ――も違う気がする。じゃあ……、ファンや読者さんのため? ――うん、そうだった。私、本当に大事なことを忘れてたんだ。「――そっか。私、分かった気がする。作家として〝初心に帰る〟ってこと。――お母さん、ありがと!」 母のおかげで分かった。というか、思い出した。少し前までの、書くことが楽しくて仕方なかった自分を。だから義務感は捨てて、もう一度「書きたい!」って気持ちから始めてみよう。 原口さんから言われた〝気持ちのリセット〟って、こういうことだったんだ。「あ~、なんか食欲湧いてきた! さあ、食べまくるぞ♪」 悩みが吹っ切れた私は鉄火巻きを平らげた後、三皿めを取る。今度はウニの軍艦巻き。母も負けじと(?)、中トロを取っている。一貫で百円のお皿だ! でもやっぱり、私は玉子は食べなかった。 ――お母さんって偉大だなあ。娘の私のことをちゃんと見てくれてるし、私が忘れかけていた大事なこともちゃんと思い出させてくれたし。 この人の娘でよかった。私は恵まれているんだなあとまた実感した。
「……っていうか、アンタその左手の包帯、どうしたの? 仕事中にケガしたの?」「うん……まあ、ちょっとね。バイト先に、万引きしようとしてた中学生がいたんだけど――」 私はその子がカッターナイフを持っていて、それを取り上げようとして切られたのだと母に説明した。「……アンタはまた、そんな無茶して」 やっぱり、母にも今西クンや原口さんと同じように呆れられた。「うん……、あたしもそう思う。っていうか、二人くらいにおんなじように叱られた」「…………まあいいわ。お腹すいたわね。行きましょうか」「うん」 私と母は、駅からすぐの回転ずしチェーンのお店に向かって歩き出した。 * * * *「――いらっしゃいませ! 二名様どうぞ」 元気いっぱいの女性店員さんに案内され、私達親子は店内のテーブル席に向かい合って座る。回転するレーンから私はサーモンの握り、母はヒラメの握りを取った。 サーモンにお醤油(しょうゆ)を垂(た)らし、一貫(いっかん)食べたところで私は手を止めた。「どうしたの? あんた、お寿司(すし)大好物でしょ。食べないの?」 確かに、お寿司はバナナと並ぶ私の大好物だけれど。「うん……、食べるけど。お母さんに聞いてほしい話があるって言ったでしょ? ……あるんだけど」 何からどう話せばいいのか。頭の中を整理しようとすればするほどこんがらがって、なかなか言葉が出てこない。「あ、そうだ。ビール飲む? でも、ケガしてるんじゃお酒はダメよね」 ヒラメを二貫とも平らげた母が、唐突にアルコールを勧めてきた。 お酒が入った方が話しやすかろうという私への気遣いなのかもしれないけれど、同じく呑(のん)兵衛(べえ)な母のことだ。実は自分が飲みたいだけの気がしなくもない。「うん、やめとくよ。ドクターストップかかってるから」「そう? じゃ、お母さんもやめとくわ」 私が断ると、母もあっさり引き下がった。母は熱い緑茶を淹れ、私は店内の冷水機でお冷やを汲(く)んできた。 お冷やを一口飲み、お皿に残っていたもう一貫のサーモンを食べてから、次のお皿(鉄火巻き)を取りつつ、私はようやく本題に入った。「――実はね、私いま好きな人がいて。でも仕事はスランプ中で、自分でもどうしていいか分かんなくて……」 この二つのことは、まったく別のことのようで実は繋がっている。――で
『――はい、巻田です。奈美なの?』 母は、コールしてすぐに電話に出てくれた。ちなみに実家の電話はナンバーディスプレイである。「うん、私(あたし)。――ゴメンね、今大丈夫?」『大丈夫よ。お父さん、昨日から大阪(おおさか)に出張中でね。夕飯も一人だから慌てる必要もないし』「出張? そうなんだ……」 それを聞いて、私は閃(ひらめ)いた。母一人の時くらい、外食してラクさせてあげよう!「私も夕飯まだなんだ。ねえ、お母さん。たまには二人で外でゴハン食べようよ。私ね、お母さんに聞いてほしい話があるの。お母さんもラクできるし、一石二鳥でしょ?」 私がまくし立てると、なぜか母は笑っている。『そうね。お母さんも実はそうしようと思ってたの。――奈美は何が食べたい?』 ……あれま、なんて偶然。さすがは親子だけあって、考えてることが一緒だった。「じゃあ回転ずしがいいな。今からそっちに行くよ。三十分くらいで行けると思うから、駅前で待ってて」 誘ったのは私の方だし、実の親だからって母に来てもらうのは筋が違う。&nb
「原因は……西原先生ですよね? 昨夜、彼女から連絡がきました。『二年前のこと、ナミちゃんに話しちゃった』と。先生がそのことで責任を感じているようだともおっしゃってましたが」 彼は麦茶をガブ飲みしてから、続きを言った。 「あれは先生のせいじゃないです。不器用だった僕が招(まね)いた結果なんです。だから先生が気に病(や)む必要はありませんよ」「……はい」「それから、先生が『降りたい』とおっしゃっても幻滅はしませんよ。蒲生先生と違ってちゃんと理由があるわけですし」 彼が異動することになった原因の人物を引き合いに出し、私を慰めてくれた。……が。「ガッカリはしますけどね」「……ですよね」 Sである原口さんは、ブッスリ釘(くぎ)を刺すことも忘れない。こういうところは実に彼らしいなあと思う。「――そうですね。僕は先生が仕事を途中で投げ出すような人じゃないと信じてます。ですが、思いつめてるようなら、一度気持ちをリセットした方がいいかもしれませんね」「え……、はあ」 〝リセット〟って言われても、具体的には何をすればいいのか分からない。「とりあえず、しばらく僕からは連絡しないようにします。先生の方で『もう大丈夫、書ける』と思えるようになったら、改めてご連絡頂いてもいいですか?」「はい、分かりました」 自分が連絡することで、私にプレッシャーをかけているのではと彼は思ったみたいだ。「――それじゃ、僕はこれで失礼します。お茶ごちそうさまでした。左手、お大事に」「あ、ありがとうございます」 私のケガを心配しつつ、原口さんは帰り支度を始めた。「原稿が上がったら、僕に伝えたいことがあるんですよね? 僕、楽しみにしてますからね」「えっ? ……はい」 ……原口さん、ちゃんと覚えてくれてるんだ。しかも、〝楽しみ〟にしてくれてる。「原口さん! 今日はありがとうございました!」 見送り際(ぎわ)、私は彼にお礼を言った。 彼が来てくれなかったら、私はきっとまだ一人でウジウジ悩んでいただろう。彼に会えて、少し元気が出てきた。 彼のグラスを右手だけですすぎながら、私は気持ちをリセットする方法を考えていた。こういう時は、誰かに会って元気をもらうのが一番いい。そして話を聞いてもらって、アドバイスをもらえるならなおよし。 琴音先生は除外するとして、他は誰だ? 由佳ちゃ
「そうだったんですか。――はい、どうぞ」 お盆から氷を浮かべた麦茶のグラスをローテーブルの上に置いていると、彼は大げさに包帯の巻かれた私の左手をじっと見ていた.「恐れ入ります。――その左手、大丈夫ですか?」 「あ、はい。ただの切り傷で、大したことないんです。利き手じゃないから、シャーペン持つのにも差し支(つか)えないですし」 今西クンの時と同じように、カラ元気を発揮して明るく答える。でも、これは却って逆効果だったらしい。「先生、それって本心じゃないでしょう? 僕にまで強がってどうするんですか」「…………はい。ホントはすごく怖かったし、今でもズキズキ痛みます。自分でも何て無茶したんだろうって後悔してます。……でも……っ」 どうしてだろう? ただ本音で話しているだけなのに、この人の前で涙が零れてくるのは。「私はただ、本を愛する者として、本を書く側の人間として、どうしても許せなくて……。だから……つい、体が勝手に動いちゃって……っ。ひとりになって初めて、『怖い』って思ったんです。私……っ、そんなに強い人間じゃないですから……っ」 しゃくり上げながら話す私に、原口さんは優しく「分かりますよ」と頷いてくれた。「店長さんからの伝言を預かってきました。先生は明日、診断書を提出してからしばらくバイトはお休みするように、と」「え……? いえ、そういうわけにはいきませんよ!」 彼の口から飛び出した店長からの伝言に、私の涙は引っ込んだ。こんなことでバイトを休むなんて公私混同だ。たとえ傷を負っていたとしても、お客様に私の事情は関係ないのだから。「そのケガでは仕事にも支障が出るし、何よりお客様にも心配をおかけしてしまうから、と。『接客業だということを忘れてもらっては困る』、だそうです」「…………そう、ですか。店長命令なら仕方ないですね。分かりました」 私は渋々頷いた。店長が原口さんに伝言を頼んだということは、私を通じて二人の間にはそれだけの信頼関係ができているということだ。私はその信頼関係を、自分から壊そうとしているのに……。「……ねえ、原口さん。私がもし、『今の原稿から降りたい』って言ったら幻滅(げんめつ)しちゃいますか?」「…………え?」 私にしては珍しいネガティブ発言に、原口さんは虚(きょ)を突かれたように目を瞠った。「理由は訊かないで下さい。私
「ゴメンね、今西クン。気持ちはありがたいけど、私が寄り掛かりたいのはキミじゃないの。……好きな人がいるから」『……そう、なんすか。分かりました! オレは全っ然ショック受けてないっすから! 大丈夫っすからね!』 彼が強がるのを聞いて、何だか余計に申し訳なくなってしまう。「ホントにゴメンなさい」『先パイ、もういいっすよ。これからも、バイト仲間としてよろしくお願いします。じゃあまた』 電話が切れた後、私は新たな罪悪感を抱え込んでしまった。でも、今西クンはきっと大丈夫だ。私より若いし、大学生は忙しいからいつまでもウジウジ悩んでなんかいられないだろう。そのうちきっと忘れるよね。 ――というわけで、私は読書を再開した。そして、じっくり読んでみて気づいた。書き手なら誰しもが経験するであろう〝産(う)みの苦しみ〟という代物(しろもの)に。 悩んでいるのは私だけじゃないんだと思うと、少しは書けそうな気がしてきた。「とりあえず、ちょっとだけ書いてみよ」 改めて原稿用紙に向き合い、シャーペンを握った。利(き)き手は右なので、左手の傷は書くことに何の
「…………あたし、一体何のために書いてるんだろ……? もう分かんない……」 気がつくと、私は大粒の涙をこぼして泣いていた。書けない作家はもう、誰からも必要とされなくなるんじゃないか。原口さんからも……。 * * * * ――私は思いっきり泣いたところで、この問題の根本的な原因について考えを巡らせた。 一つ目は、二年前に原口さんと琴音先生との仲を引き裂いてしまったのは自分だと、勝手に罪悪感を抱いてしまっていること。 二つ目は、この原稿を「書かなきゃ」と強迫観念のように思いつめていること。 一つ目については、原口さんとキチンと話せば解決するのだろうか? なので、まずは二つ目の原因の解決策について考える。 とりあえず「書かなきゃ」と自分を追い込むのはしばらくやめて、自然と「書きたい」と思えるようになるまで別のことで気を紛らわせよう。 ――ということで、本を読んだり(原口さんがくれたエッセイ本だ)、スマホのアプリでゲームをしたり、TVを観たり。そうしているうちにお腹が空いてきたけれど、夕飯を食べる気にもなれず、またエッセイ本を読もうとしていると――。 ――♪ ♪ ♪ …… 机の上に放置していたスマホに電話が。発信者は……えっ、今西クン!?『もしもし、先パイ。オレです』 通話ボタンをタップすると、まるで〝オレオレ詐欺(さぎ)
「先パイ! だ……っ、大丈夫っすか!?」 今西クンが血相を変えている。 それもそのはず。ただの切り傷だし大(たい)したことないと侮(あなど)っていたら、傷は思った以上に深いらしく、ティッシュで押さえていてもなかなか出血は止まってくれない。「大丈夫だよ、これくらい」 それでも強がっていると、今西クンに叱られた。「大丈夫じゃないでしょ、それ! こいつらはオレに任せて、先パイは店長呼んできて下さい! あと、その傷、ちゃんと手当てしないと。先パイ、もう上がりでしょ? 帰りにちゃんと病院に行って下さいね」「う、うん。分かった」 私が素直に従ったのは、彼の剣幕(けんまく)に怯んだからじゃない。彼の怒った顔がどことなく原口さんに似ていて、まるで原口さんに叱られているような気持ちになったから。「……ありがと、ゴメンね。じゃあ、あとお願い」 私は休憩室へ行く途中で店長をつかまえ、万引き未遂があったことを報告。店長は私の左手の傷を見て事情を察してくれ、病院で診断書をもらってくるように私に言った。 私はとりあえず、止血と簡単な応急手当てをしてから帰ることにした。救急箱から消毒液と脱脂綿・絆創膏(ばんそうこう)を取り出し、傷口を水洗いしてから消毒。出血が止まったのを確認して、大きめサイズの絆創膏を貼り付ける。 まだ出血は止まっていないようで、薄っすら血は滲んでいるけれど、あとは病院でしっかり処置してもらうことにしてお店の通用口を出た。 総合病院の外科で「万引き未遂の犯人からカッターナイフを取り上げようとして切られた」と事情を説明して傷を処置してもらい、痛み止めの薬を出してもらい、診断書も書いてもらってからマンションに帰り着いた。診断書代の三千円はなかなかに痛い出費だったけれど、店長は必要経費として精算すると言ってくれた。「…………はぁ~、怖かった……」 自宅で一人になって初めて、私は自分のしたことが「怖い」と感じた。どうしてあんな無茶をしたのか、自分でも信じられない。 ああいう時は自分で何とかしようとせずに、店長か今西クンを呼べばよかったのに。大きな悩みを抱えているせいで冷静な判断ができなくなっていたのだ。 でも一人の作家として、本を愛するものとして、あの行為はどうしても許せなかったから自然と体が動いてしまった。その結果がこのケガだ。 最近は紙の書籍が売